しながわ | ||||
日本橋 | 川崎 |
昼12時過ぎ、気温10℃ほど。肌寒いのでウィンドブレーカーを着用。 |
「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地」碑 幕末に、ここに建っていた薩摩藩蔵屋敷で両者の話し合いが行われた。 |
「東京タワー」 高札場があったことから「札の辻」と呼ばれる場所で撮影。 元和2年(1616)、ここに芝口門が建てられたが、後に新橋北側に建て替えられた。 高札場は天和3年(1683)に後の大木戸の場所に移された。 |
東京都港区三田の国道15号(旧東海道)沿いに建つ、筆者が務めていた会社の旧本社。 10年ほど通ったビル。 |
「高輪大木戸跡」 享保9年(1724)に建てられた東海道における江戸の玄関で、治安のため夜間は木戸が閉められた。元々日本橋側にあった高札場がここに移設された。 |
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「泉岳寺」 境内には忠臣蔵で有名な赤穂浪士の墓がある。 |
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)以下、四十七士と内匠頭の妻の墓がある。 |
「高輪海岸の石垣石」 1.5kmほど戻った京急泉岳寺駅付近で出土。国道15号沿いが江戸時代の海岸線だった。 |
「八ツ山橋の親柱(おやばしら)」 品川宿方面に渡り切った場所にあり、大正3年(1914)に架けられた2代目の橋の親柱で、昭和60年(1985)に現在の橋に架け替えられた。 |
「従是南 品川宿 地内」 品川宿の日本橋方面の入り口を示す榜示杭。 品川宿は100件近くの旅籠が建つ賑やかな宿場で、1000人もの飯盛女が居た。飯盛女の存在は幕府黙認だが、公認の遊郭である吉原に劣らぬ賑わいをみせたようだ。 |
商店街は品川宿ののぼり旗を掲げて、旧東海道の宿場町を演出している。 道路の幅員は昔のままの狭さ。 |
「品川宿本陣跡」 明治元年(1868)に明治天皇の東京行幸の際に宿泊したので「聖蹟公園」という名が付けられている。 明治天皇は1回目の東京行幸の際、京都から東京まで東海道を23日間かけて移動したそうだ。東海道の各地には天皇が休憩や宿泊したことを記した石碑が数多く残されている。 |
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「品川橋」 旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる 目黒川に架かる橋。江戸時代には境橋と呼ばれ ていた。 |
「泪橋」 立会川に架かる浜川橋の別名。この先にある鈴ヶ森刑場に護送される罪人を、縁者が秘かに見送りに来て、ここで涙を流して別れたと言われている。 |
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