東海道五十三次 | 徳川家康が慶長6年(1601)に制定した伝馬制度によって整備された五街道のうちの一つで、江戸日本橋から京都三条大橋までを太平洋沿いに結ぶ街道が東海道。品川宿から大津宿までの53ヶ所の宿場を五十三次という。宿場は城下町など古くからの町がそのまま用いられた所もあれば、新たに人を集めて作られた所もある。 | |
とうかいどうごじゅうさんつぎ | ||
伝馬制度 |
公の書簡や荷物を運ぶのに、宿場ごとに人や馬を中継(リレー)する制度。伝馬とはこの馬自体の事をさす。 江戸幕府は慶長6年(1601)東海道に伝馬制度を定めた。五十三次のあちこちに「伝馬町」や「伝馬通り」等の地名が残っている。 |
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てんませいど | ||
東海道五十七次 | 元和5年(1619)に伏見と大阪が徳川幕府の直轄となった際、大津宿から大阪京橋まで西方面に4ヶ所の宿場(伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿)が新設され五十七次となった。大津宿からは三条大橋へは向かわず伏見宿へ南下した。 | |
とうかいどうごじゅうななつぎ | ||
歌川広重 |
江戸後期の浮世絵師。安藤広重とも呼ぶ。天保3年(1832)に東海道を旅した時のスケッチを連作版画「東海道五十三次」(保永堂版)として出版したのが好評を博す。保永堂版は司馬江漢の「東海道五十三次画帖」をモデルにしたとの説もある。 亡くなるまでの10年間を過ごした住居跡が日本橋にある。 広重の東海道五十三次関連の出版物 ・天保4年(1833) 東海道五拾三次 保永堂版 ・天保11年(1840) 東海道五拾三次 佐野喜版(狂歌版) ・天保13年(1842) 東海道五十三次 江崎版(行書版) ・弘化4年(1847) 東海道五十三次 丸清版(隷書版) ・弘化4年(1847) 五十三図会 藤慶版(美人東海道) ・安政2年(1855) 五十三次名所図会 鳶屋版(竪絵東海道) ・安政2年(1855) 双筆五十三次 丸久版(人物:歌川豊国) |
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うたがわひろしげ | ||
東海道中膝栗毛 |
享和2年(1802)に出版された十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が執筆した小説。主人公の弥次郎兵衛と喜多八(弥次さん喜多さん)が東海道を歩いて伊勢神宮、京都、大阪へ騒ぎを起こしながら旅する珍道中記。 「膝栗毛」とは、膝から下を馬の脚に見立てた歩き旅のこと。 執筆者のペンネーム「一九」は、19番目の宿場・府中が生誕地であったことからとされている。 |
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とうかいどうちゅうひざくりげ | ||
本陣・脇本陣 |
本陣は宿場にある宿泊施設で、大名や役人が泊まる格式高い宿屋。門や玄関を設けることを許された。 脇本陣は本陣が満室の場合などに予備として使用される宿屋だが、平常時は旅籠屋としての営業も可能だった。 |
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ほんじん・わきほんじん | ||
旅籠屋・木賃宿 | 旅籠屋は宿場にある宿泊施設で、一般の旅人が泊まり食事の提供がある。木賃宿は食事の提供はなく、持ち込んだ食料でまかなう。 | |
はたごや・きちんやど | ||
茶屋本陣 | 本陣のような宿泊用施設ではなく、大名が休憩や昼食に利用した。 | |
ちゃやほんじん | ||
問屋場 | 幕府の公用旅行者のために、馬や宿の手配など宿場の管理業務を行う施設。 | |
といやば | ||
飯盛女 | 旅籠屋で働く給仕で、客の夜の相手もする娼婦。 | |
めしもりおんな | ||
高札場 | 掟や罰則を記した立札(高札)を立てた場所。 | |
こうさつば | ||
札の辻 | 高札場だった十字路のこと。品川、府中、大津などに地名として残っている。 | |
ふだのつじ | ||
榜示杭・棒鼻 | 宿場の入り口を示す木製の杭を榜示杭といい、その場所を棒鼻という。 | |
ぼうじぐい・ぼうはな | ||
立場 | 宿場と宿場の間に設けられた休息場所で、茶屋が店を開いていた。 | |
たてば | ||
間宿 | 宿場と宿場の間に設けられた休息場所で、立場より規模が大きく宿泊施設もあった。小田原~箱根宿間の畑、金谷~日坂宿間の菊川、知立~鳴海宿間の有松が有名。 | |
あいのしゅく | ||
一里塚 | 日本橋を起点に一里(約3.9km)ごとに築かれた目印。直径約5間(9m)の土盛を街道の両側に設置し、その上に杉や松、榎などが植えられた。東海道には104ヶ所あった。 | |
いちりづか | ||
秋葉常夜燈 | 東海地方に多い灯篭(とうろう)で、火伏の神の秋葉神社(秋葉山)信仰の証として設置された。 | |
あきばじょうやとう | ||
川会所 | 人足による川越えの管理を行う役所。東海道には酒匂川、興津川、安倍川、大井川などにあった。 | |
かわかいしょ | ||
船会所 | 船による川越えの管理を行う役所。東海道には六郷川(多摩川)、相模川、天竜川と、浜名湖の今切(いまぎれ)の渡し、伊勢湾の七里(しちり)の渡しなどにあった。 | |
ふなかいしょ | ||
東京行幸 | 明治天皇が明治元年(1868)と明治2年(1869)の2回にわたって行われた、京都御所から江戸城(後の皇居)への移動(引越し)をこう呼ぶ。1回目は9月下旬に東海道を23日間で移動した。明治維新により江戸から東京に地名が変わり、東京は事実上の首都となった。 | |
とうきょうぎょうこう | ||
見附(見付) | 街道の要所に置かれた見張り場。宿場には江戸方と上方(京都側)に2ヶ所設置され、宿場の入口/出口を示していた。 | |
みつけ | ||
宿内 | 江戸方見附と上方見附の間をこう呼ぶ。 | |
しゅくうち | ||
升形(桝形) | 三方または四方を囲んだ城門と城壁とで囲まれた四角い空き地。敵の侵入を妨げるために設置された。見附にもこの形式がある。 | |
ますがた | ||